ミニガミッツのマンチカン

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立川談春と古典落語の未来について


どうも沢山人です。
また、久しぶりの更新となってしまいました。
今回は落語についての話です。
立川談志が死んでから、
長らく生で落語を聴く機会から遠ざかっていたのですが、
今回、久しぶりに立川談春師匠の落語を生で聴く機会があり、
落語を聴いて、思いついたことが自分の中では、先進性があり、
書き留めておくに値すると思ったので、
このブログに書きますね。
今から素人が偉そうに文章を書き連ねますが、
この記事を読んで頂ければ、
落語初心者・未見の方に落語の面白さの断片が伝わるのではないかと思います。
だから、鉄星さんも読んでね。

きっかけは、5月16日の立川談春独演会です。
演目は、
百川
中入り
包丁
だったんですが、僕が色々考えを巡らすきっかけになったのは、
中入り前の談春師匠のトークからです。
「近頃は、30秒の原稿を45秒に膨らませて読める人のことを巧い読み手だという風潮があるが、本当に巧い人というのは、世界共通で、60秒の原稿を45秒で読める人のことだ。落語家も、キャリアを積み重ねるに連れて、ついつい長く、ゆっくりになっていくが、俳優の世界に触れてみて、久々にその初心を思い出すことが出来た(意訳)。」
僕は、正直この話を聴いて、
「え〜?30秒の原稿を45秒に膨らませて読める人。その人こそ、正にあんたのことじゃないのか!あんたは、巧い。口調が良く、ただの状況描写すら観客を没入させることが出来るから、調子に乗ってどんどん長くなる。そして、状況描写や、心情を丁寧に描写出来る技術が、自信が、どうも鼻につく。もうちょっと話を刈り込めないのか?テーマを浮き彫りにさせるような演出は出来ないもんか?と思ってたけど、とうとう本人もそのことに気付いたのか!こいつは凄いことになるぞ。とうとう談春が、巧いデブから、真の名人になる時が来た!こいつは、中入り後が楽しみだぜ〜、期待、期待〜!」
って思ったんですけど、
中入り後の包丁・・・・
これが超長いんですよ。
若い頃の談春師匠よりも、バリバリエピソードを詰め込んでるんですよ!
あいつは、やっぱり分かっちゃいなかった。
もう、中入り前に期待させるようなこと言ってんじゃねーよ。
って感じの包丁でした。いや、実際めちゃめちゃ巧いは巧いんですよ。

後から考えてみると、師匠が言っていた意味は、僕が期待していた
「60秒の内容を、内容の質を落とさずに刈り込み、45秒で伝える。(ニュアンスは60文字の原稿を質を変えずに、45文字にする)」
と言うことではなく、
「60秒の内容を、45秒で読み、60秒で聴いた時と聞き手に同じ理解度をもたらせる。」
と言うニュアンスで話をしていて
そう考えると、師匠は確かにそれが出来ているし、出来ているからこそ、余った15秒分のエピソードを足しているんだなって分かりました。

けれど僕的には、
おい談春、おめえ、既にそんなことを自慢げに話している次元にいちゃいけないんだよ!
おめえは、引き算を、刈り込むことを覚えなさい!
って感じです。

刈り込まなきゃいけないのに、若い頃の談春師匠よりモリモリエピソードを足してるんですよ。

しかも、厄介なことに、
足してる内容がめちゃくちゃ共感出来るというか、
足してる内容こそがまさに談春を談春たらしめているんですよね。
厄介なことにね。
これじゃあ、当分話を刈り込む方向にはいきそうもないですよ。

談春師匠に限らず、落語を聴く時に、
オーソドックスな通常の演目から、
「何を足しているのか。 何を引いているのか。」
が分かると演出に関する演者の意図が明確に分かり、
より落語を面白く聴けることに繋がるんです。



これが若い頃の談春の包丁なんですが、
金曜日に聴いた談春の包丁は、
この落語をベースとして、細かいエピソードをいっぱい、いっぱい足していました。

では、何を足していたのか。
その足したものの中で気になったものを、これから挙げていきます。
*あくまで僕が聴いて気になった部分を後から記憶に頼っての列挙なので、間違っていたら悪しからず。

1つ目
つねの家の中の様子で、佃煮が入っている入れ物を、青と白の2つの入れ物があり、その青の方に入っていると追加。また、ぬか漬けも浅いところには、大根があり、深いところに茄子がある。大根はちょうどいい具合に浸かっているが、茄子はまだ浅いので茄子はよけろというエピソードを追加。

2つ目
とらさんが佃煮を食べ絶賛。佃煮は、どこにでもある物だが、こういうどこの家庭でもある物こそ、美味しい物は凄く高い。にも関わらず、佃煮にこれ程のお金をかけているのは、味にうるさいつねを愛している証拠だと賞賛。奥さんもちょっと喜ぶといエピソードを追加。

3つ目
とらが奥さんを口説く際に、歌の音程を外す場面を追加
また、猫がトタン屋根をすべる声を、猫がトタン屋根をすべる音に変更し、
とらさんに「歌っているのに、音って言うのはやめて欲しい。せめて声と言ってくれ」という台詞を追加。

4つ目
奥さんがつねを捨てて、とらと一緒になると言い出す際に、
顔が良いつねを選んで失敗した。
男は顔じゃないとやっと分かった。男は心だというエピソードを追加。
また、とらが俺は顔には自信がないが心には自信があるというエピソードを追加。

5つ目
最後、つねの今着ている着物を脱がし、つねにとらが着ていたぼろを着せる場面で
「そのぼろを着て若い娘のところに行って、それでも、一緒になってもらえるか、行ってみろ(正確じゃないです)!」という台詞を追加

などです。
なぜ、僕がこのエピソードの追加に共感出来るのか
それは、ほとんどが
「現代人が、最初にオーソドックスな包丁を聴いた時に感じる、論理的な違和感を保管するためのエピソード」
だからなんです。
だから、僕にも、談春という演出家が、このエピソードを足す理由が痛い程よく分かるんです。

談春師匠に限らず、立川流の方々は、エピソードの追加や演出の改変が多いと思います。
師匠である談志が、常々「伝統を現代に!」と言って来たことも影響しているのでしょう。
談志は、まさにエピソードの追加、演出の改変の天才でした。
僕が、落語家の中で、立川談志を最も尊敬する理由は、その部分における「天才性」が大きいです。
しかし、談志のような天才ではない人間が、次々に「現代感覚にそって話の演出を変えていくこと」が
本当にこれからの「落語の未来」を明るくしていくことになるのか、
僕は、金曜日の談春師匠の包丁を聴いて疑問に思うようになったのです。
少し、話が大きくなってしまったので、そのことは、後から述べるとして、

まずは、「包丁」についてです。
上の若い頃の談春師匠の包丁を先に聴いて頂くと分かり易いと思うんですが、
僕が初めて「包丁」を聴いた時に、2つの気(ノイズ)になる部分がありました。

1つ目は、
とらさん、歌巧いな〜(多くの落語家が本気で歌を唄っています)。
これを聴いて、トタン屋根って断罪するのは、ちょっとおかしいんじゃないのかな?
ってこと。

2つ目(これが、最大の違和感なんですが)は、
奥さん、いくらなんでも、ブリの粗とまで言い、散々嫌っていたとらさんといきなり一緒になろうとするなんて唐突過ぎるよ?
ってところです。

おそらく、落語初心者、包丁を初めて聴く人にとっては、
誰もが僕と同じような感想を抱くのではないでしょうか?

では、談春師匠が加えたエピソードをもう1度見てみて下さい。
2つ目、3つ目、4つ目の改変は、
まさに初めて包丁を聴いた時の「僕の違和感」を解消するために作られたようなエピソードなんですよ。

落語を生で聴く様な落語ファンは、
同じ話を何度も聴いています。
そして、その演出の細部の違いを楽しんでいるのです。

だから、金曜日のお客さん達も、多くの肯定的な談春ファンは、

いや〜、やっぱり談春は、描写が丁寧で聴かせるな〜。
これだけ、女を丁寧に描けるのは、談春だけだ!流石、談春!と唸ったはずです。

初めて包丁を聴く人も、
他の落語家の人がやるよりも、違和感が少なく、すんなりと包丁という話に入れ、楽しめたはずです。

でも、談春師匠を手放しで誉めるたくはないと思っている僕には、

むむむ、その演出の変更は、本当に正解だったのか?
談志のように天才ではない、あんたが、論理性に基づきエピソードを追加するのは、
本当に落語に現代性を加えられているのか?
と考え込ませてしまうのです(何度も同じ噺を聴いていると、改変部分に思考がいきがちになります)。

3つ目の改変は、多くの人が抱く疑問を解消しただけで、落語の本質的な筋とは影響がないので失敗部分を付け加えるのは、全く問題ないと思いますが、気になるのは、2つ目や4つ目の
「奥さん、いくらなんでも、ブリの粗とまで言い、散々嫌っていたとらさんといきなり一緒になろうとするなんて唐突過ぎるよ?」
を補うエピソードです。
僕は、このエピソードは、悪手じゃないかなと思うのです。

僕は、「包丁」を現代的に描く際に、
奥さんが本当にとらさんを選ぶように描くべきではないような気がするのです。
そこを丁寧にやっちゃうんのが、僕が談春師匠が好きになりきれないところで、
談春師匠の俺なとこ!なわけなんですが・・・。

包丁のサゲは秀逸です。
このサゲは本当に素晴らしい。
包丁という噺の質の高さは、サゲだけを見てもよく分かります。

サゲの内容(包丁という落語のテーマ)的には、
厩火事と全く同一のものだと思います。


勉強したい方はどうぞ

このサゲを聴くだけで、
つねが奥さんに少しも愛情を抱いていないって言うことが、
実にスッキリと分かります。

僕は、このサゲに合うようにするためにも、
奥さんは、とらさんを本気で選んでいると匂わせるような演出にするべきではないと思います。

むしろ、大好きなつねが自分を捨てようとしていることが分かった。
けれど、自分の女として自信、プライドから、
つねさんに、私がいないとどうしようもないことを分からせるため、
せめて、少しでも、つねに嫉妬をさせようとしようとして、
その場凌ぎで、つねを嫉妬させようとするためだけに、とらとイチャイチャしたっていう
演出にした方が良いのではないかと思います。
とらさんは、その気になっていた方が演出としてグッドです。

だから、5つ目のマイナーチェンジは奥さんの心情が良く出ていて、素晴らしい改変だと思います。

談志が「落語は人間の業の肯定である。」と言っているように、
業の克服をテーマにしていたら落語的ではなくなると思うんですよ。

奥さんは心底、男を顔だけで選んでいて、
女のプライドで嫉妬しているだけ。
つねは、完全に冷めていて同情も感謝の気持ちも見せず若い女のところへ行く。そして無事に行ける。
とらは、その場の成り行きで良い女が手に入ってラッキー!

それこそが落語だと思うんですよ。
そこを、ついつい、ドラマチックにというか、丁寧にというか、人間的に描こうとしてしまう感じが
談志と談春の違いを感じると言うか、談春師匠を好きになりきれない感じがするんですよね。
もっと人間の業だけを浮き彫りにした、整合性は取れてないかもしれないけれど、
実にこれぞ人間!って思えてしまうような、業だけを刈り込んだような噺にして欲しいんですよね。
皆さんはどうですか?

で、古典落語の未来についてなんですが、
今の若手の落語家さん達は、「伝統を現代に!」
というような現代的な感覚になるように、噺を改変する方向に尽力をしている人が
本当に多いように思えます。
けれど、僕は談春師匠の包丁を聴いて、本当の一部の天才を覗いて、
そっち方向には未来がないんじゃないかと思えました。
むしろ、本寸法通りに、違和感があるところは、より違和感が際立つようにやった方が良いのではないかと思います。むしろ、その違和感を違和感として残したまま、それを超えた感動が押し寄せて来てこそ、
江戸時代と平成の日本が繋がるのではないかと思うのです。

そもそも、感動を誘う、人情噺と言われている落語には、本当に違和感、ノイズとなる部分が多いんですよ。
特に、お金の使い方についてです。

文七元結の長兵衛が見ず知らずの文七に娘を吉原に預けて作った金を渡すシーンは殺意しか湧かないですし、
柳田格之進の娘を吉原に入れて金を作る理由もエゴとしか思えない。

けれど、むしろ最初にありったけ、現代との違和感で観客にモヤモヤを与えといて
最後にそれを全部吹き飛ばすような感動を与えてこそ、本当の古典落語だと思うようになりました。
そして、よくよく考えてみると運が良かっただけじゃん!
ってのが落語だなと思います。

現代性を下手に入れても、せっかくの古典が中途半端になっちゃうだけな気がします。

立川流では、志の輔師匠は、割とモヤモヤをモヤモヤとして観客にしっかり与える演出をされている気がします。
けど、声がな〜。

落語って難しいですね。

長くなりましたが以上です。



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