どうも、沢山人です。
キネマ旬報ベストテン2012が発表されましたね。
今回取り上げる映画は、「桐島、部活やめるってよ」です。
以前この映画の感想は、ブログに書いたんですけど、感想の出来を僕があまり気に入っていないので、
2月15日のDVD発売を前に、感想をリメイクしました。
過去の記事と比べていただいても面白いかもしれません。
当初、僕はこの映画を観る予定をしていませんでした。
しかし、ライムスターの宇多丸さんやダイノジの大谷さんなど
信頼を寄せている人たちから、続々と絶賛の声が聞こえてきたため、
これは、今年観ておかなければならない映画なんじゃないかと思えて来ました。
そして、いざ、ふたを開けてみると、
シネマハスラー2012年全映画ランキング2位
キネマ旬報2012年邦画ランキング2位
町山さんが選ぶ2012年全映画ランキング2位
と正に2012年を代表する邦画だったわけです。
映画を観てから今日に至るまで数々の絶賛の声を耳にしてきました。
しかし、結論から言いますと、僕はイマイチこの映画に乗れなかったのです。
凄く良い映画だとは思いますが、手放しで誉められない。
何か心にもやもやするものがある。というのが、僕の感想です。
僕は、映画を観る時に「良い映画かどうか」というセンサーと「好きな映画かどうか」といセンサーの2つを持ち合わせておりまして、この2つのセンサーが両方とも「いいね!」と言うと、素晴らしい映画だと判断するわけです(実は2つのセンサーは一部重なっているところがあるんです)が・・・・。
このセンサーのうちの「好きな映画かどうか」というセンサーが強烈にアラームを鳴らし、僕をもやもやさせているわけです。
今から、そのアラームの要因を説明していきます。大きく分けて2つあるのですが、
1つめは、「テーマ」にリアリティーを与える「ディティール」の部分に感情移入がし辛いことです。
この映画のテーマは、
青春時代はいわゆる「かっこいい奴」がもてはやされるかもしれない。
しかし、「青春時代にヒエラルキーの頂点にいる」ということだけでは人生のカタルシスは味わえない。不細工でも非モテでも「全力で打ち込める好きなこと」があってこそ人生のカタルシスは満たされる。
ということだと思います。
このテーマと映画におけるディティールとがイマイチかみ合ってないように僕には思えるのです。
もう少し詳しく言えば、このディティールでは。なんだかんだでヒエラルキーの上の人たちが上記のテーマで映画を作っているような感じがするということです。
宇多丸さんや、町山さんが絶賛していることから鑑みても、そんな風に感じるのは少数派なのかもしれませんが、少なくとも僕にはそう感じます(僕は地獄のような青春時代を送って来たわけではないんですけどね)。
具体的にどこがそう感じるかといいますと
ヒエラルキーの頂点である桐島君がその立場をドロップアウトした理由が全く示されていないので、桐島君に全く感情移入出来ないところです。
もちろん、ヒエラルキーの頂点にいても、本気で打ち込めるものがないと人生のカタルシスは得られないということだと思うんですけど、頂点から降りるのに具体的な理由がないのは、ちょっと安直過ぎやしませんかね?
もっと言えば、梨紗(山本美月)ちゃんの美しさの完成度が高過ぎて、あんな美人で、エロさがにじみ出ている彼女を邪見に扱うのは、相当な理由がないと納得出来ないということです。せめて、早見あかりさんくらいのかわいらしさも残るエロさの少ない女優さんに留めておくべきでしたよ。
更に言うなら、梨紗のような性格の女の子を彼女として選ぶ男が、上記のようなテーマに目覚めるか?という点に置いてもリアリティーが欠けているような気がしてなりません。せめて、早見あかりさんくらいの性格に留めておくべきでしたよ。
後、これは、脱線かもしれませんが、ヒエラルキーの頂点に立つバレー部員のポジションがリベロってどうなんすかね?かなり、違和感がありませんか?
前田君を神木隆之介君が演じていることに関しても、言わずもがなかもしれませんが、
「どんなにオタクっぽくてもな、こんなイケメンだったら、俺が女なら、ほっとかね〜んだよ!」
という感情がぬぐい去れない。
かすみちゃんにしてもそうで、劇中では別にそれ程映画が好きなわけでもないキャラクターになっているので、前田君との関係性が単なるミスリードにしかなっていない気がして、非常に残念です。
せめて、本当に映画は大好きで、実は前田君達と映画の話もしてみたいけど、「映画好き」というのが今の普通の高校生には「ちょっと変わっているオタク」と映ってしまうことを分かっているので、普通の高校生を演じなければ生き辛くなるということを心から理解しているかすみちゃんは意に反して、みんなの前では前田君を邪見に扱っている。
また、前田君と映画の話などをし、「心が通じ合える人に出会う」という経験をしていないので、男のタイプは別よって感じで、彼と付き合っているという風にしないと話が成立しない気がします。
素朴な野球部員キャプテンも、言い方は悪いけど、ただのバカにしか見えない。
これも、所詮ヒエラルキーの上の人がこのテーマで撮っているから、「ただのバカ」という風な姿になってしまったと思えてしまう。
亜矢ちゃんも、気持ちは分かるが、もうちょっとリアリズムよりのキャラでも良いと思う。
僕は、上記のような「映画内リアリティー」にイマイチ感情移入出来ず、この映画が、大好きな映画にはなりえませんでした。
もう1つは構成状の問題です。
この映画は物語上の最大のキーマンである、桐島君が終始不在のまま映画が終わります。
このこと自体が桐島君がスクリーンに登場しないことが問題だといっているのでは、ありません。
桐島君が、なぜ部活を辞めたのかが分かる描写が、
もっと言えば、桐島君が部活を辞めることに至った経緯に観客が感情移入出来る描写がほぼ皆無な点が
問題だと言っているのです。
「桐島、部活やめるってよ」
というタイトルでスクリーンに終始桐島君が登場しない。
これは、非常に意欲的で、挑戦的な構成だと思います。
だけれども、こういう作りにするならば、絶対に、
「桐島君がいなくなったことによる他者の動きにより、桐島君という人間が浮き彫りになる。」
という作りにするべきではないでしょうか。?
古典落語の名作中の名作に「らくだ」という噺があります。
僕が古典落語の中で最も好きな噺です。
主人公のらくだ、馬さんは、物語の最初から既にふぐにあたって死んでいます。
生きている馬さんが活躍するシーンは、一つもありません。
しかし、長屋の人たちに、香典を貰いにいく経緯によって、
馬さんという人間がどんな人間だったのかが見事に浮き彫りになっていくのです。
らくだが名作と言われる最大の原因はそこだと僕は思っています。
どう、考えても、今回の映画は、そういう構成にすることは避けては通れないのではないかと僕は思うのです。
今回の映画「桐島、部活やめるってよ」では、
学校ヒエラルキーの頂点である桐島君が、県選抜に選ばれる程、実力があるにも関わらず、
急遽、バレー部を辞めてしまう、金曜日から火曜日までの物語なのです。
にも関わらず、桐島君が部活を辞めた本当の理由が最初から最後まで全くわからない。
この映画は、桐島君が部活を辞めたという事実が、他者(桐島君の彼女、桐島君の親友、桐島君の親友の彼女、桐島君の彼女の友達等)に影響を与え、その影響が「青春」を浮き彫りにしているという作りになっています。
そして、その個々の「青春」のリアリティーが高く評価されているのではないかと思います。
けど、その「青春」のきっかけになった。
「桐島君が部活を辞める」という事実に
まるで、リアリティーがない。彼女にも、親友にも、なんの相談も無く突然部活を辞めるという衝撃の展開にリアリティーを与えるシーンが一つもない。これはどう考えても問題ではないでしょうか?
ここがないがしろにされての名作というのは、あり得ないと思います。僕は、どうしても気になります。
桐島が、好きな人はそんなのは、些細なことだ。この、桐島君に翻弄される高校生達の青春のリアリティーの素晴らしさに比べれば些末な問題だというかもしれません。
しかし、この問題を些末だと捉えられない僕には、どうもこの主人公達の「青春」すらリアルに感じられないのです。
どうも嘘くさく感じてしまう。